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2008年03月02日(日)

イギリス人の見た谷崎潤一郎

サイモン・マクバーニー演出の「春琴」。
谷崎文学をどう舞台化するか。
そこには、新しい演劇と、能狂言の様式が混在していた。
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かなりの衝撃をうけたし、久々に面白かった。
谷崎の、「春琴抄」と「陰翳礼賛」というふたつの作品を通して
谷崎が日本文化をどう見ていたのか、
イギリス人演出家がそれに挑戦した。
ご存知の方は
「エレファント・バニッシュ」に続く、日本での演出第二弾である。
出演者は、盲目の琴に、深津絵里。年老いた佐助役にヨシ笈田。
観た後の感想は、
能狂言的な舞台空間の使い方、
そして、肉体を駆使したフィジカルなチーム身体劇。
セットというセットはほとんどなく、出演している役者が
空間の中を入れ替わり立ち代り、役割をチェンジする。
セットといっても、棒、畳、机、そしてパペットを
次々に、自ら動かす。
舞踊劇とも違うし、黒子というわけでもない。
そのめまぐるしい動きが、身体と物語を混在させる。
しかし、その動きが完璧なだけに観ているほうは
違和感を覚えない。
また、3つの時制が1つの空間の中に存在し、
つまり観客から見え、あたかも能のように時間の観念が薄れ
見ている者までもが、時制を忘れてしまう。
そして、幼い琴であるパペットを操る深津。
その声が甲高く記憶の底からの声のようにこだまする。
そのパペットは、成長し女優に取って代わるが、
いまだ深津に操られている。
やけどを負い、醜い包帯姿となってはじめて深津本人が
琴を演じる。
すべてが、演出家なのか谷崎なのか、それとも観客なのか
誰かにいつも操られている。
それらの境が途方もなく曖昧。
日本的な陰翳の解釈なのだろうか。
サイモンには、いや西欧の人間にはこの曖昧さが理解できないらしい。
としても、この舞台上には、光の曖昧さが残る。
サイモンは、この舞台をこう語る。
これは、人を操る劇だと。
人が人を。谷崎が人を。谷崎が文体を。
それゆえに、この物語はリアルかフェークかが曖昧。
この曖昧さが、神秘に近づくものとして
サイモンを魅了した。
知れば知るほどに、知らないことへの憧憬が深くなる、と。
ほんとうに刺激的な舞台だった。

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